ハヤシライスから考える

先週末の娘の保育園の保護者が企画するイベントに参加した時の事をちょっと振り返ってみる。近所の公園でハヤシライスを食べ、親子の交流を深めようっていう恒例の行事だ。


この日、娘はなかなか友達と一緒に遊べずにいた。
チョー不機嫌 かつ 親にベタベタで友達とも接触をひたすら拒む娘。
しかし、ただ単に『腹ペコ』という理由だけだったのか?
ハヤシライスを食べ終われば、通常のテンションに戻り大好きなお友達と手を繋いで駆けずり回ったり滑り台でみんなと楽しげに遊んでた。
腹が減ると機嫌が悪くなるは僕も同じ。そんな僕に娘が似てしまったのか?この事に関して何も否めなくそれを知っている妻が心穏やかでないのは言うまでもないと…この時『まったく以って、申し訳ない』と心の中で呟く。

それにしても、園児の凄み?というか親の凄み?というか娘(我家含め)は終始、翻ろうされっぱなしだった。やはり、どことなくこのイベントに溶け込む事のできない娘と親。ちょっと違う。こんなもんなのかなぁ?保護者の集まりとかって。少しぶっちゃけ過ぎてないかな?保育園そのものより、保育園児の親たちについて行けないところでもある。まぁそれは保育園に限った事ではなく、どの環境にでもあり得る事なんだけどさ。
ここ最近のモラルとかひっくるめて考えても、キリがないけど。

その時に、親の飲み会に誘われた。今回に限らず、毎回誘われている。しかしそれに参加したいと思えない我家。どうしても断ってしまう。何か親同士の密接度が高くなる事で、辺に関係をギクシャクするのを恐れてもいる。そこまで構えなくてもいいとは思うが、なにか鬱陶しさも感じるし、それ以前に『子どもが主であり、子どもの事を考えた教育や親の姿勢が根本』という点ではどこかこの親達は、おざなりにしている感じがしてならない。まぁそれでいい人は構わないけど。僕自身少し考え過ぎたかもしれない。

だが、みんなでご飯を食べているときも、感じた事が何か親同士の結束の方が強く感じ、子どもの存在感より親の存在感の方がはるかに勝っていた。子どものイベント行事であるのに、平然と昼間からビール呑んでる輩もいたし。

我家はそういう意味では、こじんまりと我関せず 黙々とハヤシライスだけを食べ続けた。娘しか目に入っていないただのおやバカでもあるんだけどw
変に他人との壁をつくる必要もないけど、こんな人達と依存する気はない。そういう意味では最低限のイベント参加でいいと思ってもいる。最後の綱引きなんかは、子どもソッチノケで綱引きに夢中!その姿がかなり馬鹿みたい。こんな事で熱くなれる親ってばステキ!ってオイオイ!…子どもが泣いてるぞ!

主旨は履き違えないよう心がけてほしい。それに見ていない様で、実はいろんな人が自分を見ているのもお忘れなく。僕自身色んな人間からどう観察されているのか?心配するときがある。自分が変におかしな挙動を示せば、周りの人間も不自然と思う。自分が思っている以上に他人は自分を観察し、こういう人なんだって辺にウワサたてる事もあるだろう。そういう意味でも、子どもの居る前では、親の姿勢ってしっかり他人に見せる必要がある。下手に自分を隠すとかそういう事でなく、わきまえる事は最低限必要と、そう言いたいだけ。結局友人ではないんだから、子ども主体にやらせりゃいい。

まぁ友人との付き合いではここまで悲観的には考えない。そもそも何の為の集まりかって言う本質が違う。『身内は身内、友人は友人、会社は会社、保育園は保育園…』という向き合い方がある。
ズケズケと人の懐に入り込む親も居れば人種は様々だけど、変なまき沿いは御免だ。っと考えすぎる自分。妻もこれには同感している。友人でもそういう問題で狎れあいにうんざりする話も聞いているので、そんな二の舞はご免だ。

貴重な親達という飲み会でのコミュニケーションの場を自ら経ってしまう点では、時には参考になる部分もあるからちょっと勿体無い部分はあるけれどまぁ各家庭によって考え方は様々という事なのかもしれない。


引き続き、息のつまらない程度に接したい。